最近よくもらう質問の中や会話の中に
「プレイ」と「調教」の違いについてがわからないと言われることが 多いです。
説明するのには、長い時間とエネルギーがかかりますが挑戦してみようと思います。
私の頭の中の定義では
『プレイ』・・ 一話完結のドラマのようなもので、不特定の相手と楽しむ遊び(ゲーム)。
相手側のスタンスとして、自己の快楽追求がプレイを求める動機であることが多いように思う。
プレイ(遊び)にも勿論信頼関係が必要で、プレイメイトのような
定期的に遊ぶ相手も存在する。
プレイメイトは、プレイの時間以外でSMの部分を追及しない。
プレイが終わると、普通の男性に戻り会話もMとしてではなく一般的な
社会人としての姿勢に戻る。
プレイをすることで、自分の抑え込んでいる自分を解放できるのでプレイは定期的に必要ではあるが、そのサイクルは相手に決める権利を与えず自分のペースで自分の行為を決めていく。
能動的行為。
それがコミニュケーションの方法ともなる。
そして、心を開かせる役割のSを信頼し徐々にプレイ以上のものを求めるようになることもある。
『調教』・・・行為はプレイと同じことをすることも多い。
プレイと違う点は、簡単に言ってしまうと「心」の部分。
Mは自分の決めた1人のSにしか体を預けない。
Sは自分の決めた計画(カリキュラムのようなもの)の元に、少しずつ
行為を発展させていったり、変更させたりする。
受動的行為。
Mらしい精神が無いと、成り立たないものなので「調教」を受ける人は
最もMらしい姿勢だと思う。
心の中では継続的にMとして生きる人はSからの自発的な本当の意味での「調教」を求めることが多い。
調教と言う言葉の定義から考えてみると
調教は訓練という意味になる。
訓練という言葉は
- あることについて教え、それがうまくできるように技術的・身体的練習を継続的に行わせること。
- 児童・生徒に直接働きかけ、目標に到達するまで継続的に行わせること。
と定義されている。
いずれの意味も「継続的に行わせること」だと書かれている。
一話完結のゲームを複数の人間とやっていては、「行わせる」ことはできない。
「行わせる」、という言葉は教える側が、1つの方針に則って育てていくことでもある。Mの自由な考えの下で、Mの好きな時、Mの好きな人、と遊んでいては責任持って訓練していくことは不可能。
「行わせる」、という言葉が持つ意味は行動の責任と指導の権利をもつ人間が教えを受ける側を形作ることも意味すると思う。
SMの関係では、ここに「支配」が生まれる。
支配する側、される側、という関係が生まれるのは「調教」のみ。
プレイはプレイで成立するし、楽しい。
私にとっては、お互いが子供になって鬼ごっこをするようなものだと思っている。
役割を決め合って、その時間の中で楽しむ。
家に帰った後もずっと「鬼」で暮らす必要も無い。
心を開いてくれて、その時間を任せてくれることは嬉しい。
だけど、簡単に「調教」と言われるのは好きじゃない。
かといって、無邪気に遊び心に触れることを
「プレイ」でも「調教」でも無いものだと誤解されるのも嫌だ。
なぜなら、私は職業的な「女王様」というものでは在りたくないから。
私はMistressではなくDominaの方で在りたいと思うから。
面倒くさくてミストレスと書くことはあるけれど、心の中では違うと思っている。
日本語で書くなら、古臭い言い方だと「調教師」の方が近いのかもしれない。
けれど、私はそれでも無いので自分のことを「女王」と言うことが多い。
女王は、不特定多数の主人にはなり得ない。
1人の奴隷も持たずに「女王」とは言えない。
「調教」していける責任と自信を持った時初めて、そう言えると思う。
本当なら、ややこしいので相応しい別の肩書きを考えるべきなのかもしれないけど
SMの世界の中で一番わかってもらいやすい言葉で伝えるほうが早いので、「女王」と書いて
自分の中で納得することにしている。
プレイで生計を立てる暮らしを止めてから
1対1で「プレイ」をすることは無くなった。
1対1でするのは、「調教」だけ。
ゲームは軽く楽しみたい。
でも、その中で心に触れる瞬間を持ちたい。
そして、そのMの心に何か残って、心の深い繋がりを求めるようになってくれたら
調教して行きたい。
そんな風に思っているのが本音。
私の中に「プレイ」「調教」以外はない。
プレイと調教の中に、言葉では書き足りない深いやりとりがあるけれど
行為としてはその2つに分けられている。
よくメールで「調教希望」や「調教して下さい」という短い文章を貰う。
大抵は返事をしない。
何故かと言うと、簡単に「調教」と書くのはMが頭の中でSを自分の快楽を満たす1アイテムとして存在させている現われに思えるから。
純粋に「調教」を求める人は、深い自分の中の苦しみや願いを切々と書き
私でなくてはならない理由をきちんと感じさせてくれる。
プレイは生きる術ではない以上、私がその人を調教する時間を作るには
それなりの「理由」が存在しない限り無意味に思う。
調教するということは、相手のことをじっくり考えて心と体の両方から
育てていくことを意味するのでとてもエネルギーを使う。
それだけ心が動かないと、やりたくないことでもある。
今は大きな理由を持っている人や地方に住んでいる人としか、そういう時間を作らない。
人間、本当に心を開いてくれた人にしか自分の心の深い部分や本当の姿は見せないでしょう。
本当に苦しんで、救いを求めて心を投げ出してくれる。
だから、私も誰にも見せない深い部分の自分を出して受け止める。
きっと、「プレイ」の顔と「調教」の時の顔は違う。
調教は、相手に対する絶対的権利を持って行うので
目も完全に支配する目になっているはず。
そんな特別な顔を知る人は、とても数少ないと思う。
本気で怒り、本気で笑い、本気で触れ合う。
それが調教。
笑いと快楽で成立するものとは大きく違う。
激しい「行為」が出来てもそれは「調教」ではない。
ただ黙って足元に居る時間。
居られない時間。
メールで心を綴る。
それが私にとって一番の調教。
全てはそこから始まる。
簡単に口にしないで欲しいと思う。
「調教」という言葉を。
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